昭和50年01月10日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが、心で殺すのが思い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
 神が見ておるぞと言う事。今日は此処に焦点を絞って聞いて頂きたい。神様が見ておいでであると言う事。其処で昔から人を殺せば花二つと言う事があります。殺せば殺される。傷付ければ傷付けられる。それを人間の世界ではお上があってそれぞれのお仕置きに合うと。此れは場合によるとまぁ無実の罪と言った様な事もある。所謂神様の方にはそれがない。まぁ言うなら天網恢恢疎にして漏らさずと言う事にまぁなるでしょうか。神が見ておると言う事はそう言う事だと思うですね。
 まっ其処で思うんですけれども、私共はおかげを受けなければならぬ。其処で神様が見ておいでなのですから、神様がご承知なのですから。それでこちらが間違わぬ生き方をすれば、間違わぬおかげが受けられると言う事です。どなたかのお歌に「真の道に叶いなば、祈らずとても神は守らん」なんかそういう歌があったですね。真の道に適いなばもう此れは絶対です。真の道に叶えば、それこそ祈らずとても神様は守って下さるだけではない、おかげを下さるでしょう。
 所が問題はだから真の道の所謂展開です。どう言う事が真の道に叶う事かと言う事です。それがね義理とか人情とか、ね。又は道徳的な物では決して無いのです。ね。義理人情に厚いとか、まぁ道徳的な又修養を積んで道徳的な、言うならば此れが本当の人間の行き方だと言う風に、例え自分で決め込んでおってもです。本当に神様が守って御座るという実証が無いならそれは違っておるんです。まぁいうならばです。そういう生き方をしておると自分で自負しておる人がです、ね。
 もし病気をしておったりまたは難儀が続いておったり、ね。お金に不自由しておったりするならばね。それは間違っておるのです。神様が守って下さると言う事は、人間の幸福を守り続けて下さるのです。ね。しかもそれは限りないです。私は昨日こう言う事を頂いた。文章にするとこう言う事になる。「真理は、我々の幸福の全てを支配する、無限の力である」と言う事。そう言う意味の事を頂きました。それで今日は此の七十五節を頂きまいたから、あの傷付けるとか殺すとかと言う様な事ではなくてです。
 神が見ておると言う事を今日は、強調して聞いて頂きたいと言う訳です。神様が見ておいでだから、殺せば殺される傷付ければ傷付けられると言う訳です。人間の世界ではそれはまぁ言うなら時効になって、ね。例えば罪を犯しても、それが無罪になると言った様な事もあるけれどもね。ね。神が見ておると言う事はそう言う事は、決して無いのだと。もうそれこそ、天網恢恢疎にして漏らさずである。ね。
 神が見ておるです。だからそれとほんなら私共が反対の事ですよ、ね。人の心を生かし人の心を傷付けたり、殺したりするのじゃなくて。生かしたり癒したり出来る程しの事です。ね。神が見て御座るですから。だからそこにね実証的な言うならばね。おかげを頂けれる世界がそこから開けて来る。ね。其処でです所謂人情とか義理とかと、ね。又はその道徳的な考え方。其処にです、どうでも教えによらなければ、本当な事は解らないと言う事。言うならば信心をしなければ解らないと言う事になります。
 もう教祖様の場合はそうです。義理人情じゃ無いです。ね。又道徳的でも無いです。それを超えた物ですね。だから場合には非人情に見える時もある。それこそ義理も人情も知らん奴だと思われる様な場合すらあるです。ね。非道徳的な場合もあるです。ね。真の道とか、心理とかと言う言葉を使っておりますけれども、此れは何処までもだから私共が此れが本当だと、思っておる事が本当でない。ですから言うならば愈々本当の事から本当を追求して行くと言う事であります。
 同じ例えば信心によりましても、本当な事が段々本当で無いと解って、又次の本当へ進んで行くと言う、そう言う教えも幾らもあります。でそれは結局どう言う事でしょうかね。まぁ子供と大人の相違と言う事じゃないでしょうか。子供に取っては本当だけれども、大人から見るとそれは嘘だと。けれどもまっそれを子供は教えを頂いて、それを本当だとそう言う風にまぁ、頂いておるからそれを本当としておかげを下さる。
 だから愈々おかげが末広になって行くと言う事は、本当から本当を愈々追求しなければならない。言うならば一生が修行じゃと仰るのは愈々本当な事から、本当の事を分からせて頂く為の修行なのです。昨日竹内先生達がご夫妻でお参りになった。今久留米の市長選で大変激戦だそうです。それで昨日はその前に、近見市長のまぁ陣中見舞いにおいでられた。それでお願いをなさって御神米を持ってそして帰りに寄りたい。此処で沢山お神酒やらを求めておいでられました。
 そしてご夫婦でそこで御理解を頂き終わってから、又此処へ来て、お初穂を持って出て見えられました。そのお初穂に先生必ず色々お願い事をずっと書いて御座いますがね。昨日の帰られる前に出された御初穂には、雪の進軍とかいてあった。昨日の御理解ねそれは私は昨日所謂寒中修行の姿、ね。雪の中に進軍しておる。私が御神願に昨日頂いたのはもうそれこそ前傾きになってね、もう前傾きになってその雪をかしてこう進んでおる。こげんこげな風にしちゃ歩かれませんよね。
 雪の中の例えば風に向かって、こう進む時には自分の身体をこんなにその前に傾けるようにしてこの進んで行くという。それが信心の言うならば、気迫とでも言うかそういう気迫で、みなさん寒中修行がなされてあるという意味の事を、昨日聞いて頂いてまぁ頂き終わられて此処が、今日のご理解の頂所だと感じられたのでしょう。ね。お初穂に雪の進軍と書いてある。ね。そういう信心をさせて下さいと言う事。
 私はねどういう素晴らしい、本当な事が解ってもです。それを行の上に現すと言う事は、所謂寒中修行現在皆さんがなさっておられる。そう言う例えば、気迫の内容がなからなければです、おかげには繋がらないです。どんなに素晴らしい真理を知っておっても、ね。本当の事を詩っておるだけではおかげにならんです。ですから結局求められるのは、三代金光様のお言葉の中にも在ります様に「信心は、日々がさらである」と言う事であります。日々が生き生きとしておらなければならぬ。
 その生き生きとした心を持って分かる。その心を持って心を現して行くと言う事にならなければ、おかげに繋がらないです。そう言う私は、生き生きとした教えの受け止め方と言う、其処からね人を殺す段ではない。傷付ける段ではない。もう癒さにゃおかん生かさにゃおかんと言う働きしか、生まれて来ないと思うです。心が神様へそうして生き生きとして向こうておる時に、根性の悪いこつどん思われません。例えば腹の立つ様な事を、例えば言われても、腹の立つ段じゃありません。
 昨日ある教会のご信者さんが参って見えました。夫婦仲が悪くて今別れておられます。それでその私が気が短いからと言われるのですけども。そのまぁ何時も夫婦喧嘩する時には、自分がちょっとこらえときゃ、喧嘩にならんのだけれども、まぁ喧嘩になる訳です。私がねその家内を叩きました。それでもやっぱ信心しておりますから、生神金光大神様、生神金光大神様ち言うて叩いたつげな。
 それでも家内が腹かいて出て行ったと言う訳なんです。金光様金光様と言うてすれば、悪い事しても良いかと言う事じゃないのですよやっぱり。けれども私は涙ぐましく思いました、その話を聞きながら。生神金光大神様、生神金光大神様と言うて叩いたち。ね。それでも矢張り家内は腹かいて出て行った訳です。結局それは、本当な事が解っていないからなのです。本当な事が解ったら、ね。過去の石井清さんの信心じゃないですけれども、ね。今はもっと進んでおられます。ね。
 もう腹立てては馬鹿らしかと思い込んでおられます。こりゃ本当の事なんです。何故馬鹿か、腹を立てたら、おかげが受けられんと言う事です。だから計算づくのごたるけれども、馬鹿らしいから腹は立てん。それでまぁ余計腹の立つ様な事が、大きければ大きい程心の中でニコニコ笑うとる。もうこら絶対本当な事なんです。ね。それが段々なら最近の清さんの信心はです。腹が立つから腹を立てるのではなくてです、ね。腹を立てては神様に相すまんから腹を立てぬというのです。
 だいぶん変わって来られました。今までは計算づくじゃった。だからおかげにおいては変わらんです。けれども内容が変わっておる。本当な事が解れば解る程です、神様が此の様にして私を作って下さろうとしておる、力を与えて下さろうとしておるのに、腹でも立てよっちゃ勿体ないと言う物が生まれて来たのです。ですから自分自身の向上とおかげとが、連れのうて行く訳です。ね。真理が解られた。本当の事が解って行きよりなさる。ね。だから幸福の全てを支配すると言う事を知っておられるのです。ね。
 そういう生き方が、ね。もっともっと本当な事が解って行く所に、無限の力がおかげの頂けれる無限の力が付いてくるのです。ね。私は合楽の信心のまそれこそ、自画自賛になりますけれども、ね。一番素晴らしい事はね。私が日々頂現しておるおかげだと思おうです。ね。それはもう何時の場合であっても、ね。天地がバックであるというか、天地が私と共に働いておって下さると言う様な感じがするからです。
 大は言うなら天地の、言うなら此の降る照るの事から、ね。言うならば私任せになって下さってあると言う事です。又はそれこそ人間の幸福の条件の全ての事がです。私を中心にして、神様のお働きなさっておる、そのおかげの素晴らしさというか、タイミングの素晴らしさと言う物をです。もう日々それを実感させて頂くのですから、有難い勿体ないが絶える事がない。
 こう言う中にお神様の働きがあっておるんだと、もう日にどれ程、何時も思うか解らない。ね。それこそ久留米の佐田さんじゃないですけれども、何時もリズムに乗り通しなのです。天地が叶えて下さるそのリズムに乗り通しに、乗らせて頂いておる、一日であると言う事です。ね。私はね本当な事が解って、本当な事を行じて行くと言う事は、決して難しい事で花い。リズムに乗って行くのですから、実に楽しいのである。有難いのである。ね。そこでそう言う生き方がです、ね。
 真理は我々の幸福の全てを支配する。本当な事がです。私共の幸福の全てを支配する。しかも無限の限りない力が与えられる。そこでなら私は、どう言う風なあり方になっておるかと言う事です。ね。又どう言う事に焦点を置いて、信心修行を日々させて頂いておるかと言う事です。まぁ一口に言えばね。天地日月の心になる事肝要と言う。そこに何時の場合でも、焦点がおかれて信心をしておると言う事です。
 何時の場合でも神様が右と仰れば右左と仰れば左。何時も神様任せであると言う事です。そこから心の安らぎをどんな場合でも頂けておると言う事。その安らぎにその喜びに言うならば素晴らしいタイミングの中に、おかげを頂いておると言う事。しかも尽きる事のない、無限の働きを受けながらおかげを受けておると言う事です。私は神が見ておると言う事をです。ね。言うならばね。神様が見て御座るから例えば本当の事をすれば、本当のおかげが受けられると言う実証を私自身がしておるんだと思います。ね。
 ある場合には私は本当にその冷淡だと言われる場合があります。ね。それはさっきから申します様に、義理人情で考えたら本当に冷淡かも知れません。けれども私は何時の場合でも、それを信条で受け止めて、信条で現して行こうと思うておるからであります。場合にはね本当にそう言う事があります。昨日例によってから、お芝居の本を東京から送ってきました。ちょっと開かせて頂いた所に、この頃から勘三郎と勘九郎の連獅子の評が書いて御座いました。
 もう後にも先にもこんな連獅子を見た事が無いと云う様に、素晴らしい評でした。子獅子が谷間に突き落とされる所の振りがあります。そして振り落とされてからあの突き落とされてから、またあの舞台に現れて来る時の、あの子獅子の生き生きとした、その生き生きとした、その勢いを見た時にその親獅子の勘三郎が、もうそれをもう大変な感動で受けておるのが舞台に現れておる。芸だけではなくて親子でやってますから。
 その親子の呼吸のところで思わず、感動したと言う所を読ませて頂きながら、私自身も感動した。ね。例えばほんなら私がです。皆さんが私の事を親先生と言うて下さるから、私もほんなら、言うならば信心の上での子供だと言う風に思います。ね。本当に矢張り突き落とす様な場合もありますけれども、それが生き生きとしてです。それが又現されて来る時の、私の心の喜びと言う物は、今連獅子の評に、私の言うならば必見して考えたから感動したんです。ところが突きおとされった切りです。
 もう這い上がっても来きらんでから、もう先生があげなこつ言うたから、もやもやしたけんもう参らんと言う様な事を聞いたり、そんな事があるんですやっぱり。先生があげなこつ言うたからと言うて腹を立てる。ね。そう言う場合にはです。本当に親先生は冷たい人だと言う風に、見られる場合が何時もまぁ往々にしてあるんです。特に家内や妹達はそれを言います。
 中々妹なんかは人情家ですから、まぁ私を見ると非人情に見える訳です。ね。家内なんかはもうそれこそ私が病気どんしたら、もう哀れちこう言う訳です「なしや」ち。もうそれこそ、先生はもう枕元に座ってでんやらっしゃれん。だからもう私は病気どんしたらもう、哀れと言う風に言うんです。それだけ非人情に見られている訳です。ね。けどもおかげで病気しません。ね。そらもう撫でたり擦ったりした方がです。喜ぶかも知れませんし、それが人情で言うならば、喜ばれるかも知れませんけれども。
 それではおかげは伴うて来ないと言う事です。私は今日はおかげが伴うて来る信心でなからなければならんと言う事です。おかげは、何か卑しい者の様に言うけれどもです。こらもう、絶対の理なんです。本当な事になって来れば、本当なおかげが受けられるのです。そこでならおかげを受けられるとするならば、自分の本当と思うておる事の間違いを正させて頂かなければならない。其処の所の本当をです。何時も神様はご覧になっておるのだ、見ておいでになるのだと、ね。
 悪い事だけ見ておりなさって、良か事は目こぼしになってるなんて事は、絶対ないです。ね。おかげの受けられん時は、矢張り自分の信心を正して行く以外にはないのです。心で傷付けたり心で殺したり、ね。そう言う事があって良かろうはずはない。いかに生神金光大神様というて、唱えながら叩いたんでは、それは本当な事ではありません。本当な事が解りゃとても叩くてん何てん馬鹿らしか。叩こうとするその腹立ちの心が起こって来る事すらが、本当言うたら勿体ない事なんです。ね。
 それを生神金光大神様と唱えて、言うならば腹を立てたり、叩いたりしたんではね。おかげになりませんと言う事。そこで本当な事を分からなければいけないと言う事。ね。本当な事には本当なおかげが必ず伴うて来る。その本当な事を追求する。それを例えば、今合楽で一番素晴らしいのはです。そういう天地が、私の為に自由になって下さる程しのおかげが、お広前の上にも表れておると言う事。ね。だから私が常日頃言っておる所の信心を、本気で身に付けて行く。
 言うならば成り行きを、愈々大切にする大切にして行く、その過程においてはです、ね。はぁ冷たいとか、非人情といわれる場合があるかも知れませんけれども、そこん所を大事にして行く。人間心を使わないということです。ね。そういう生き方を身につけていく。いうならばです。天地日月の心に、いよいよ、なること肝要であるというような精進こそが、一番間違いがない生き方だと言う事です。ね。そう言う生き方の上に、神様が、目を留めなさらないはずがない。ね。そう言う生き方の上にです。
 私は無限のおかげの頂けれる力が頂けれると思います。しかも此れはそれで良いと言う事はありません。もう限りが無いと言う事です。今日は私は神が見ておるぞと、ね。良しに付け悪しきに付けて、神様が見ておい出られるのだ。其処でそんなら、悪しなことはせずに、良しな事をして行こうと言うけれどもです。唯真の道にかないなば、ね。祈らずとても、神は守らんと言った様なそんな浅い考えでは、本当な事は解らないと言う事。竹内先生じゃないけれども、本当な教えが解らせて頂く事の為には。
 何時も雪の進軍的な心の状態。生き生きとして、前に進んでも、後ろには下がらんと言う、そういう生き方を、先ずは頂かせて貰う。そこからさらな心が、何時も生まれて来る。その更な心でキャッチして行く所の教え。更な心で行じて行く所の信心。ね。そう言う生き方の上にです。ね。それこそ頼まずとても神は守らんという。それこそ願わなくても、おかげは限りなく下さる。所謂神様が先回りして、おかげを下さると言う様なおかげに繋がって来ると言う事を、今日は聞いて頂きました。
    どうぞ。